ある日、「どこか行ってみたいところはありますか?」と全員に投げかけてみた。すると、90歳を過ぎた女性が小さな声で、「自分の生まれたところに、もう一回、行ってみたい」。
めったに口を開かない彼女の意志表明に、「どうしても実現させたい」と、スタッフは心に誓った。
彼女の故郷は、のんびり村花岡から車で20分ほど山間に入ったところにある。ご家族の了解をなんとかして得ると、車イスごと車に乗り込んだ。同乗したのは、介護スタッフの他に、彼女の幼なじみ。たまたま同じ施設に入居していたのだ。二人は車中からすでに手をつないでいた。
幼いころ、一緒に通った小学校。すぐ近くにある友達の家。そして、しばらくぶりに会う姉弟。言葉の少ない彼女の口からは、思い出があふれ出る。そして彼女は、スタッフたちをさらに驚かせた。
いつもなら、ミキサーですり潰したおかずやお粥しか口にできない彼女だが、刺身やてんぷらのお膳を、すべて平らげてしまった。普通の人でも多いくらいなのに…。
さてその翌日のこと、「何か書くものが欲しい」と彼女。ノートとペンを渡してみると、ゆっくりだが、ハッキリした文字で書き始めた。
「昨日は大変お世話になりました。余りの感動の深さにちょっと、言葉になりません」。
そして、もう一言。
「生きている限り、自分をまっとうさせたいと思います」。
俳句をたしなんでいたという彼女の知性と、老いてもなお自分らしさを貫こうとする意志の表れ。スタッフは改めて、旅の実現を、「よかった」と心から思った。
あれから、彼女はスタッフとのふれあいを楽しむようになった。「来年も行こうね」と問いかけると嬉しそうにうなずく。以前にはなかった笑顔がそこにはある。
(記事/山口県東部の地域誌・くるとん/藤井)